【火焔樹】正月の誓い
日本では元旦を迎えると新たな目標や志を抱き、絶対にこれだけはやり抜こうと誓いを立てたりするものだ。でも、三日坊主となってしまう人も多い。
インドネシアでは、イスラム暦の新年は別としても、感覚的にはプアサ(断食)明けのレバラン(断食明け大祭)が日本のお正月のような時期に当たる。「今年もよろしくお願いします」が日本流のあいさつなら、レバランの決まり文句は「mohon maaf lahir dan batin(すべてにおいてお許しください)」である。
過去の過ちを「例えそれが無意識で口をついた言葉でも誰かを傷つけていたかも知れない。もしあなたにそんなことをしていたならごめんなさい」とあいさつが交わされる。
プアサの期間中に身も心も清め、この日を境にすべてリセットして生まれ変わり、年を追うごとに罪を減らし、そしてさらにその先にある死を迎えたときのことを念頭に、この世で関わった人たちから自分が犯したであろう罪から解き放たれ、天国へ行くか地獄へ行くか最後の審判の日に備えているのだ。
いつかのコラムで書いたように、「先を考えないインドネシア人と言われるが、日本人よりもはるか先を見越して懸命に生きている」。その原点が人々が口にするレバランのあいさつに凝縮されている。
毎年のレバラン休暇明けのオフィスにて。会社の部下「‥お許しください」―私「分かった。今年からは遅刻するなよ」。翌年のレバラン。部下「お許しください」―私「わかった。今年からは遅刻するなよ」。その次の年も同じやり取り。また今年も同じ会話が繰り返されるだろう。
彼らの頭の中では、時間を無視することによって誰かを傷つけているとはみじんとも感じないのだ。繰り返すのは何も遅刻だけではないが、これらについては、最後の審判の日の傍聴席でどんな判決が出るか聞いてみたい気もする。
毎年三日坊主の新年の誓いを繰り返すだけでなく、形式的なことばかりにこだわって変化のスピードが遅くなりがちな日本の世の中にちょっと似ていると言えば似ているか。これについては誰に聞けば明確な回答を得られるのだろうか。結局は神のみぞ知るということか。いずれにせよ、自分もあまり大きなことは言えないのだが‥。みなさんはどうだろうか?(会社役員・芦田洸)