日本企業誘致に奔走 BKPMの八木徹さん
投資調整庁(BKPM)投資促進政策アドバイザーとして日本企業のインドネシア進出を手助けしてきた八木徹さん(64)が2007年7月から6年にわたる任期を終え、5日に帰国する。
08年後半のリーマンショックを乗り越えた、09年ごろからインドネシアへの評価ががらりと変わった。「それまでインドネシアはベトナム、タイに次いで3番目。テロや宗教問題、自然災害のニュースばかりだった。それが、09年には4.5%の経済成長率を記録し、内需が注目を浴びるようになった」
8代目となる国際協力機構(JICA)派遣のアドバイザーとして、投資政策サポートから日本企業の誘致に軸足を移してきた。日系企業の相談は絶えず、日本からの視察団の対応が続く日々。ジャカルタ・ジャパンクラブ(JJC)理事長を務めた人脈も生かし、「自分は税務、労務、通関関税などの専門家ではないので、それぞれの分野の人を紹介することを心掛けた」という。自動車関連企業の進出は一段落つき、サービス業の関心が高まっているのが最近の傾向だ。
トーメン(現豊田通商)入社の1971年に担当となってからインドネシア一筋の40年超。74年の初出張を皮切りに、今回を含めて4度の駐在で通算在住歴は23年になる。
70年代当時はウィスマ・ヌサンタラから南を見ると、オフィスビルとホテル1棟ずつを除いてほとんど真っ平ら。北はサリナ・デパートとモナス(独立記念塔)ぐらいしか高い建物はなかった。日本食レストランも数えるほどで、要人が来ると「よしこ」に案内し、大勢だと「菊川」に行き、戦時中からインドネシアで暮らす菊池輝武さん(2011年死去)の話を聞くのが常だったという。
至るところで日本食にありつけ、日本の情報も容易に入手できるようになった近年のジャカルタを「当時と比べると隔世の感がある」と評する八木さん。投資ラッシュで在留邦人も増加する中、「外国人が異国の地で働いているという感覚が薄れてきているのではないか」と警鐘を鳴らす。
「ある意味、日本国内の『ジャカルタ工場』というような感じ。日本で当たり前のことがそうでないと不平が出るというような話を聞くが、パスポートを持って、赤道を越えて来ているということを忘れてはいけない。インドネシアも自信を付けており、現地の文化や習慣に配慮しないと対日批判すら出始めかねない。『他人の庭』にいるという意識で、相手を尊敬しなくては」(上野太郎、写真も)