【火焔樹】 汚職は文化
最近、インドネシアのテレビで宮崎駿監督のアニメ作品を観た。彼の作品で印象に残っている一つは「千と千尋の神隠し」だ。これはまだ放映されていないようなので、ぜひインドネシアの人に観てほしい。
「カオナシ」というキャラクターが出てくる。カオナシは自分の要求を通すために大量のお金をばらまいて自分を特別扱いしてもらうとする。そしてしまいには、欲に暴走する相手を自分の中にのみ込んでしまうようになった。最近、下級警察官の預金口座に150億円もの残高があると判明したことや、数億円単位でお金が動く一連の汚職事件が明るみになり、カオナシを思い出してしまった。
この物語には、千という主人公がいて、千はカオナシからの執拗な金品の誘惑に負けず、どんなに「欲しがれ〜」ってカオナシに追いかけられてもこれを拒絶し続けた。そして、千はカオナシを断罪するのではなくカオナシの心の奥に潜む孤独を受け入れて、許すのだ。
「汚職が文化」と揶揄(やゆ)されるインドネシアで、根本的な問題を解決しないことには、いつまでたっても自分たちの心の中に潜む欲望を消し去ることはできないだろう。ちなみに、拒否し続ける千をカオナシはのみ込むことはできない。
インドネシアで暮らす日本人はこんな文化をどう感じているだろうか。話を聞く分には酷いと思うだろうが、自分が問題に直面したときには、文化は尊重しなければならないかのごとく、現地の人より少しばかり懐事情が良いことをいいことに「まあいいか」となってしまう局面もあるのはどうしてか。考えてみれば、日本も贈り物の文化や権力ある人に擦り寄っていくための手段として似たような習慣があることは否定できない。
巨額なお金が動く汚職事件とは全く次元が違うと判断し、交通違反で自分の懐に合わせ10万ルピア程度、お巡りさんに「心付け」するのは、「ルールに従ったところで世の中変わるまい」という勝手な開き直りにすぎない。そんな心の弱さを見つめ直したい。(会社役員・芦田洸)