【火焔樹】 移ろいゆくオゴオゴ
先月、本帰国を目前にして初めてバリ島でニュピを体験した。サカ暦の新年ニュピの前日には、各町内会が中心となって、それぞれに趣向を凝らしたオゴオゴという悪魔を形どった巨大な張りぼてを担いで練り回る。地下から地上に現れた悪霊をガムランの音で街の隅々から追い出し、オゴオゴにおびき寄せたあと燃やして退散させるということだった。ウブドのプリアタン出身のバリ人の友人とオゴオゴ鑑賞している時、彼が色々興味深いことを教えてくれた。
オゴオゴに用いられるのは悪の象徴だと聞いていたが、ガネーシャやガルーダまでいる。カッコイイから見ている分には楽しいのだが、目的にそぐわないのではという疑問が残る。とりあえず神話関連だということでそこは深く追究しないことにする。
大会好きの国民性だがオゴオゴに関しては勝敗をつけると、ねたみやいさかいの原因になるから大会化しないと聞いていたが、クタやデンパサールでは大会があって、政府から補助金が出ているらしい。もはや完全に客引き狙いの様相だ。
さらに、オゴオゴはパレード後に燃やされる、というのが定説だが、最近はもったいないから燃やさずに残しておくものも多いのだとか。悪霊が宿っているのに残す!? そもそもの存在意義を否定する行為だが、竹や紙で作られた昔のシンプルな人形とは違って、近年は高い素材を使っているらしい。プラスチックではないようだが、触った感触は発泡スチロールのようにしっかりしている。バリ舞踊で使われるような金色の装飾や、鳥の羽、電飾、はては電動で効果音が鳴る物もあった。町内会同士の競争意識が高じたのか、観光客を喜ばせるためなのか、理由は定かでないが、豪華さを求めた結果燃やせないのではかなり本末転倒だろう。
要するに、お祭りだから楽しければ何でも良くなった感じがあり、そのあたりの緩さにインドネシアらしさをひしひしと感じるのだが、ある時は開催中止になったり方針変更があったりと、毎年試行錯誤しているようだ。無常観に心惹かれる日本人の一人としては、質素でも消える運命にあるオゴオゴだからこそ見たいという気持ちがあるので、いつか原点に立ち返る時がくることに期待したい。
一転して翌日のニュピには、一昔前のシンプルな生活を十分に体感することができた。バイクやテレビやCDなどの人工音がまったくなく、聞こえるのは鳥のさえずり、風に揺れる葉擦れの音、セミの声、時折かすかな人の談笑。通りに出る人がいないよう地域の警備団が巡回して、きっちり維持される伝統。音と文明に溢れた観光色満載の前夜と、突如古代に戻ったかのような静寂を味わえる一日。この著しい差異に、善悪や生死など相反する二つの調和を重んじるバリ・ヒンズーの姿をありありと感じた旅だった。(ジャカルタ在住・福崎令奈)