「今の労組は行き過ぎ」 「賃上げより雇用創出」 独裁体制下の労働運動家から転身 労相補佐官のディタ・インダ・サリ氏
スハルト政権下で労働運動家として活動を始め、現在は労働移住相補佐官を務めるディタ・インダ・サリ氏(40)に現在の労務問題などについて話を聞いた。1996年から3年間の投獄生活を経た後も、労働者の権利確立を目指す活動を続け、2000年にはアジアのノーベル賞とも言われるマグサイサイ賞の若手指導者賞を受賞したディタ氏は、近年の一部の過激な労働組合の活動について、「出来る限りの賃上げを求めるという姿勢は労働者を過剰に保護しすぎで自らの首を絞めることになりかねない」との見解を表明。雇用維持・創出や生産性向上を優先すべきだと主張した。
インドネシア大学法学部在学中の1992年ごろに労働運動に目覚めたディタ氏。マルクス主義に傾倒し、労働階級の保護に向けた活動を開始する。独裁体制を敷き、言論の自由が抑圧されたスハルト政権下で、大学に通いながら、労働者たちとほぼ一緒に暮らして組織化を図り、デモを展開。95年には同政権下で初となるメーデーを主導したという。軍が画策したとされる96年7月27日の旧民主党本部襲撃事件でスケープゴートとされ、8年の禁錮刑を言い渡された。
獄中でスハルト政権崩壊を知り、ハビビ政権下で恩赦を受け3年で出所。「政権崩壊は、国民の反抗の意識が長い期間かけて醸成された結果。その意味で、われわれの活動はその意識を持つ人を増やすのに貢献した。逮捕後も公判のたびにメディアの取材が増え、民衆にスハルト政権の問題やなぜわれわれが闘っているかを主張することができた」と胸を張る。
その後、2007年まで労組連合のインドネシア闘争労働組合戦線(FNPBI)の指導者を務めた。政治の世界から労働者保護を目指すと新党設立に動いたが実現せず、既存政党からの出馬も失敗。11年からは大臣補佐官として、新たなキャリアを歩み始めた。
きっかけはムハイミン・イスカンダル労働移住相から、旧友のジュムフル・ヒダヤット氏が長官を務める労働者派遣保護庁(BNP2TKI)と労働省の関係改善を手伝うよう依頼されたこと。「大臣とは、国会副議長時代に連絡を取り合った程度で、むしろ大臣を批判する側だった」が、労働者の権利保護につながればと引き受け、関係修繕を果たしたため、大臣補佐官への就任を要請された。
「非常に長い間、引き受けるかを考えたが、近年、すでに多くの人がデモに繰り出し、労働者の福祉向上の活動を行うようになった。一方で政権内部からの変革を目指す人はまだ少数。当然ながら、周りからの『裏切り者だ』という批判を受けること覚悟した。労働者や農民の運命を変えるという気持ちを持ち続けることができるかという挑戦、賭けでもあった」と話す。
現在の労使をめぐる問題について、「確かにかつては、いかに高い賃金を勝ち取るかがテーマだったが、それは給与水準自体が低かったから。近年はどう生産性を上げるかが課題。労働者の生産性だけでなく、ガスや電力、きれいな水の確保、インフラや物流網の整備なども含めた産業全体の生産性を包括的に考える必要がある。労組連合もその観点から問題をとらえるべき」と指摘。
アウトソーシングについても「法の執行を徹底し、制限する必要はあるが、完全撤廃や過度な引き締めは、特に教育水準が低い人々、工場周辺の住民など、依然として多い失業者の行き場をなくしてしまう。大量解雇があった場合、労働者は損害を被るだけ。まだ働いていない人にいかにして働く場を提供するかが一番重要だ」との見解を示した。(上野太郎、写真も)