広島大が名誉博士号 ハッサン・ラハヤさんに授与 「被爆体験を後世へ」 元イ人留学生で最後の一人
広島大学は26日、第2次世界大戦中に広島文理科大学(現・広島大学)へ留学し、原爆によって被爆したインドネシア人の元南方特別留学生ハッサン・ラハヤさん(90)を含む3人に名誉博士号を授与すると発表した。原爆と東京大空襲という日本史に残る悲劇を目の当たりにしたハッサンさん。帰国後は日イの関係構築に尽力する傍ら、被爆体験を後世へと語り継ぐ活動を続けた。授与の知らせを受けたハッサンさんは「二度とこの悲劇を繰り返さないよう、これからも伝えていきたい」と話している。(小塩航大)
広大は、語り部としての活動が同大の基本理念である「平和を希求する精神」の実現に貢献したことを授与の理由に挙げている。
また、最高諮問会議(DPA)委員などの要職を通じ、母国の発展に貢献し、日本語教育のためにジャカルタ日本文化学院の創設し日イ友好促進へ尽力したことを挙げた。
ハッサンさんは授与について「第二の故郷である日本の大学から名誉博士号を頂けるというのはとても名誉なこと。これまで日イの懸け橋を一人でも多く送り出そうと頑張ってきた。今度は日本からも留学生を呼び込みたい」と喜びを語った。
他の授与者は、ブルネイの元首相ペンギラン・ユソフさん(89)、マレーシアの日本語教育者アブドル・ラザクさん(87)となった。来年3月ごろに各授与者の国で名誉博士号を手渡す予定だ。
■「後世へ語り継ぐ」
1945年8月6日。午前8時15分。アメリカ軍の爆撃機B―29「エノラ・ゲイ」が広島市に原子爆弾を投下した。
広島文理科大学に留学していたインドネシア人留学生9人のうち7人が生き残ったが、今ではハッサンさんが唯一の生存者。犠牲になった2人の墓は、現在も広島と京都にある。
当時、自らも被爆しながら市民を介護したハッサンさんは、被爆体験について「私にできることはこの体験を後世へと語り継いでいくこと。この悲劇を繰り返してはいけない。身を持って学んだ」と力を込めた。
■日本と歩んだ人生
1922年12月22日、西ジャワ州ボゴール生まれ。20歳の時、初めて日本人と出会った。侵攻して来た旧日本軍の兵士だったという。44年に来日し、広島文理科大学で学び、終戦を日本で迎えた。周りの留学生が帰国する中、日本に残った。「せっかく日本に来たから勉強を続ける」と固い決意だった。
進駐軍で通訳を務めながら慶応義塾大学で学び、52年に帰国。66年には元日本留学生を中心にしたダルマ・プルサダ大学の設立に力を注いだ。「日本とインドネシアを結ぶ人材を多く輩出し、日本語の普及を目指した」と振り返る。
77―82年に国民協議会(MPR)議員、82―87年にDPA委員を歴任。2005年には日イの友好親善に尽力した功績が評価され、春の外国人叙勲で旭日中綬章を受章した。
90歳の現在も留学生にアドバイスする活動を続けるなど、後進の育成に情熱を注ぐ。「これからも日イ関係の構築に取り組み、若者に日本の魅力を感じてほしい」と話す。