【忘れ得ぬ人々 日本とインドネシア】 石油危機から日本を救った 稲嶺一郎氏
太平洋戦争の戦中・戦後を通じ、日本とインドネシアの相互理解、政治経済関係の促進、2国間友好関係の構築に貢献した政治家として、稲嶺一郎元参議院議員の名前が第一に挙げられる。
稲嶺氏は1905年9月23日、沖縄県に生まれ、生家は三司官(さんしかん=旧琉球王国の宰相職)を務めた名門。早稲田大学に入り、下宿先の大学の恩師、西村眞次教授の娘と結婚した。西村教授は戦前、日本人のルーツを解明した文化人類学者である。
世界恐慌下の29(昭和4)年、当時最高倍率と言われた難関の満鉄(南満州鉄道)に合格。満鉄青年同志会を結成し、アジアの平和について研究した。幹部候補生として2年間欧米を視察旅行し、その後アジア・中東視察の特命を受けて国際感覚を磨いた。この経験がその後の人生に大きな影響を与えた。
帰国後与えられた任務はバンコク満鉄事務所の開設。以降大戦中、タイ、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシアなどで7年間、タイの王族、華僑、各国有力者や独立運動家らと親交を深めた。稲嶺氏がこの時、東南アジアの新しいリーダーとなる人物と交際を深めたことが後の「東南アジア人脈」となる。
■ 運命の出会い
44(昭和19)年、稲嶺氏はジャカルタの日本海軍武官府の要請により満鉄バンコク所長から同武官府華僑課長として赴任。このとき、民族指導者のスカルノ氏、イスラム指導者のナシール師らと深い親交を持ち、終戦後、日本軍の武器、弾薬、食糧などを秘かに提供、助言を与え、インドネシア独立戦争を支援した。これが発覚し、オランダ軍により戦犯としてグロドック刑務所(西ジャカルタ区)に1年余り投獄される。この刑務所で金子智一ジャワ軍政監部宣伝班員(戦後、日本歩け歩け協会会長)と一緒になり、後、金子氏と同郷(山形)の木村武雄衆院議員と稲嶺氏はスハルト政権誕生と共に2国間友好協力関係を円滑に主導して行くこととなるが、その運命の出会いがこのグロドック刑務所だった。
ナシール師は日本軍施政下、マシュミ(インドネシア・イスラム教徒協議会)指導者として活躍、世界イスラム教徒会議副議長としてイスラム世界では著名な指導者で、世界のイスラム指導者の連帯を呼び掛け、55年にバンドンで開かれた初のアジア・アフリカ会議には、多くの世界のイスラム国の指導者・スルタンが参集した。
73年10月、第4次中東戦争がぼっ発、石油輸出機構(OPEC)は原油の生産を削減、原油価格を一挙に70%引き上げた。さらに、アラブ産油国はイスラエル支援国に対し石油禁輸措置を発表。第1次オイル・ショックが世界を揺るがした。
日本ではトイレット・ペーパー・パニック現象はあったものの、大きな混乱はなく、80年以降の日本経済は注目されることとなった。この背景には、稲嶺氏の偉大な貢献があった。
50年に琉球石油(現りゅうせき)を設立して社長を務め、70年に参院議員となった稲嶺氏はオイル・ショック後、旧知のスハルト大統領(当時)に石油の輸入増大を依頼した。さらに、サウジアラビアの石油の対日輸出工作を無二の親友であるナシール師に依頼。稲嶺氏はナシール師の書簡を携え、サウジのファイサル国王に面会、石油はインドネシア経由で日本に輸出されることとなった。
■ ミスター・アセアン
81年、自民党外交部会長だった稲嶺氏はアジア諸国との関係強化を促進するため、東南アジア諸国連合(ASEAN)協会を設立、自ら会長に就任した。ちなみに2代目は石原慎太郎氏である。また、稲嶺氏は戦時中インドネシアにいた軍人軍属の戦友会組織をまとめ、日本インドネシア友好団体協議会を創設、東南アジアの人々からミスター・アセアンと呼ばれた。
稲嶺氏は89年6月19日死去、83歳だった。元沖縄県知事稲嶺惠一氏は稲嶺氏の子息である。
下地常雄ASEAN協会代表理事は「稲嶺一郎先生は沖縄を代表する代議士、琉球石油のトップとしてらつ腕を発揮し、国家を背負っている代議士らしい代議士だった。何より東南アジアこそが、経済的にも地政学的にも日本の生き残りを担保するものになるとしてASEAN協会を創設した、先見の明ある政治家だった」と振り返った。(随時掲載)
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日本とインドネシアは長きにわたって友好関係が保たれている。それは明治から現在まで、多くの先達によって築き上げられ、特に終戦以降、多くの人たちの血と涙と汗と努力によって達成された友好信頼関係でもある。両国の関係は今後とも重要であるが、他方、先達の努力は忘れ去られ、その功績を省みる人も少ない状況になっている。これからの日本人はインドネシアやアジアに対してどう対応すべきなのか。先人達の功績を温故知新とすべきではなかろうかと考えて、過去の人物を紹介していきたい。(濱田雄二)