バタビアからアイヌの地へ 鎖国時代の蘭艦隊調査 作家・津島佑子さん 新作小説取材で来イ
17世紀以降、アジア広域で交易を展開したオランダの東インド会社(VOC)の測量船がバタビア(ジャカルタ)を出発し、日本の北方でアイヌ人と交流していた―。史実に基づき、壮大なスケールで描く小説の取材に、作家の津島佑子さん(66)がこのほど初めてインドネシアを訪問、オランダ植民地時代の面影が残る旧市街コタ周辺などを巡り、VOCの痕跡をたどった。原発事故を経て日本の枠組みを再考するうちに、鎖国時代に日本を探索したVOCと日本の先住民族であるアイヌの出会いに着目したという。滞在中、インドネシア大学で開いた講演会では、震災以降、日本の作家が直面する困難な状況や、早死にした文豪太宰治の次女として、母子家庭で育った女性の家族観などについて語った。
VOCは1602年、バタビアで設立された世界初の株式会社とされる。植民地経営や外国との条約締結、自衛戦争遂行など準国家的な権限を持ち、バタビアを拠点に香料貿易を独占、コーヒーの強制栽培などにも乗り出した。
小説の核に想定しているのは、江戸幕府の鎖国時代に日本の北方ルートを探索したVOCの測量隊だ。カストリカム号とプレスケンス号の2隻は1643年、バタビアを出発。国後島と択捉島の間の海峡を通り、サハリンまで行き、根室の海岸では2週間ほど停泊。船舶修理や食料補給などをした。人なつっこいアイヌの人々とシャケや木材などを物々交換したという。
長崎・出島のみ交易が許された鎖国当時、このうち1隻が岩手の陸前高田近くで一時拘束される事件も起きたが、出島のオランダ商館が江戸幕府に渡航目的を説明して釈放された。コロンブスの「新大陸発見」に沸く当時のヨーロッパで、東方にあるとされた「金銀島」や北方ルート開拓を目的とした探検だったとみられる。
アイヌや台湾の先住民などをテーマにした作品も発表してきた津島さんがバタビアに着目したのは、福島の原発事故を経て、日本の国の枠組みをあらためて考えるようになったからという。鎖国をするためにはどこまでが国なのかを明確にする必要が生じたが、VOCの測量隊は幕府を通り越し、北方の島を探検、狩猟民族のアイヌ人と接していた。
また、鎖国で長崎からバタビアへ追放された混血女性「じゃがたらお春」の悲話の真偽をたどった本を読んだこともきっかけとなったという。日本では混血児を哀れむ気持ちがあったが、バタビアでは差別意識は持たれず、オランダ人と結婚して裕福な生活を送ったという違いにも着目する。鎖国中のバタビア、長崎、北方のアイヌの人々などを絡めた作品になりそうだ。
■声なき人々のために
4日間の滞在中、津島さんは、西ジャワ州デポックのインドネシア大大学院日本地域研究科で、同大と国際交流基金ジャカルタ日本文化センター共催の講演会で、「3.11後」の日本の作家が置かれた状況について説明した。
何十年も続く放射能の危険性を伝えたり、脱原発を訴えたりすることで、出版社からも「あの人に原稿を頼んだら何を書かれるか分からない」とにらまれかねない現状があると指摘。原発事故を起こした国が原発の安全性を宣伝することに対し、異議を主張する少数派の人々のためにこそ作家は書かなければならないと強調した。
特に原爆の被爆地である長崎で、米国は被爆者の女性の身体検査を実施し、生理の変化などを調べていたことを重視し、「今の日本が当時の米国と同じやり方で、福島の人々の健康への影響を調べる一方で、福島は安全と宣伝している」と指摘。被爆者について書かれた作品を挙げ、「立体的にその場で経験したように読者に感じてもらうことが文学の力だ」と説明した。
父である太宰治の作品について「言論統制が厳しかった戦争中に書かれ、人気を得たもの。現在まで読み継がれていると言われるが、マジョリティが喜び、仲間意識を持たせるだけの作品であり、声を出せない人々のために書く自分とは異なる」と話した。(配島克彦、写真も)