【9.30事件特集】 「スカルノ退き、会社も」 日本人2人が証言
9・30事件前、スカルノ政権下で経済は疲弊していた。街中ではインドネシア学生連盟(KAMI)などが公然と大統領を批判。同政権と関係が深かった商社ワルガ・プラで働いていた上野勝二郎=当時(26)=は「それでもスカルノ氏は『建国の父』として国民に尊敬されており、失脚するなんて考えられなかった」と振り返る。
■―商社社員
1965年10月1日未明、ムルデカ・ティム―ル通りのホテルに滞在していた上野は散発する銃声で目が覚めた。新聞は来ず、テレビ放送も夜だけの時代。頼りのラジオのスイッチを押すと、新しい閣僚の名前が読み上げられていた。「大変なことが起こった」。
ホテルには銃を持った軍人が出入りしている。情報が欲しかったが、とても話しかけられる雰囲気ではなかった。
8ミリ映写機を抱え外に出ようとするのを、普段はおとなしい従業員が血相を変えて阻止。日本の家族に電話する術もなく、ホテルから出られない日々が続いた。
将軍たちの葬儀には大群衆が参列していた。死亡した将軍の棺がそれぞれ乗せられた6台の装甲車が通過。「皆、悲しみに暮れていたのか、不気味なほど静まりかえっていた」。
すでに共産党員粛清が始まっていたのだろう。「遺体が捨てられたチリウン川は、血であふれているから魚は食べるな」とのうわさが流布していた。ホテル・インドネシア(HI)前にあった英国大使館の黒こげになった塀から、そこであったであろう激しい戦闘が容易に想像できた。
付き合っていた英語が堪能なインドゥヤティ(18)の父親は将軍らの殺害を実行したとされる大統領親衛隊(チャクラビラ)の幹部だった。事件後、よく遊びに行った南ジャカルタ・ブロックMの家を訪れたが引っ越した後。「その後も連絡は付かず、どうなったかは分からない」。会社も、スカルノ大統領の失脚とともに消滅してしまった。
■「父の友人投獄された」―小学3年生
杉本まり子=同(10)、旧姓・杉山=は10月2日、宿泊していた父・市平の友人のシマンジャヤ氏宅から車で両親の滞在先のウィスマ・ワルタ(現ホテル・グランド・ハイアット)へ向かっていた。だが行く先々で軍関係者に道がふさがれており、回り道をしたが、引き返した。午後になって両親が迎えに来た。
市平はアジア・アフリカ・ジャーナリスト会議の書記で、4月から母・昭子とともにウィスマ・ワルタに滞在。まり子は市平の意向で平日はシマンジャヤ宅に泊まり、小学校に通っていた。
その日、ウィスマ・ワルタの隣にあった郵便局やホテル・インドネシア(HI)前ロータリーで銃撃戦があった。各階に軍人が配置され、その後も従業員らは建物内でおびえた様子だった。「子どもながらに、大変なことが起きたと直感した」。外出禁止令が出されており、夜の楽しみだった市平との散歩はできなくなった。夕方以降はロータリーの池(現噴水)の周りに装甲車が集まっていた。
数日後、シマンジャヤ宅に荷物を取りに行ったが、何度呼んでも出てこない。ようやく女性だけが出てきた。屋根裏に隠れていたようだ。その後、すぐに次の滞在地の中国・広州に移ったが、PKIに近いとしてシマンジャヤをはじめ「父の友人の多くが投獄されていった」。(敬称略)(堀之内健史)
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